Future of Art

芸術のゆくえ

近代アートとは芸術に対する反則の歴史であった、というひとつの仮定を立てるならば、何故これがアートになるのか理解できない、というアートがアートとして評価された理由がいともたやすく理解できる。ことの始まりは、クールベでもマネでもデュシャンでもいい、誰かが最初に反則をやらかした。人々が旧来の伝統的絵画に、造形作品に、建築に、音楽に、一切の「伝統」というアンティークにウンザリしていたとき、中でもとりわけウンザリしていた数人が、アートとよばれるはずのないものを創り、これをアートだと主張して暴れ出したとき、芸術はバランスを崩し転倒した。もはや何がアートだなんてそんなこと分からない。これが19世紀の終わりから、20世紀の最初の20、30年頃、つまり100年前の出来事である。

以来アーティストたちは反則という反則を繰り広げてきた。わざとミュージアムやギャラリーといった展示場に収まらないように作品を巨大にしたり、自分の手で直接作ったわけでもないものを自分の作品である主張したり、これまで美術の世界では受け入れられなかった素材やデザインやテーマばかりで作品を構成したり、いかに奇想天外に旧来の芸術に対し反則行為を行えるかが評価基準へと切り替わったのだ。このように反則を行うことが前提と化し久しい今日において、反則を行うことは100年前と同じ力強い驚きを持ちはしない。分かり安い反則を掻き集めた今日の美術館など退屈なばかりである。この歴史の潮流にもっとも新しくダイナミック挑戦した作品のひとつは、Matthew Barney(マシュー・バーニー)の作品に違いない。たんに反則を行うだけではアートはもはや機能しないという来るべきアートの悲劇を見抜き、彼は時代の変わり目に対応しようとしてきたのだ。代表作品であるCremaster Cycle(クレマスター・サイクル)を見れば、そのことは疑う余地などないのである。

クレマスター・サイクルは、バーニーが10年近くにわたり創り続けてきた寓話的映像作品であり、これはビデオ・アートではなく映画に近い。作品の中でバーニーは、自らの体を化け物のような、妖精のような、ひとりの生き物へと変身させ、その何物かに化した自分が、彼自身が作品の中に用意したあらゆる出来事と遭遇するというアドベンチャーである。作中には彼が手がけた、ドローイング、ペインティング、壁画、スカルプチャー、またデコレートされた人や動物なども登場する。これらのキャストの動き、台詞、ダンスなどもバーニーが一切をてがけている。そしてこの凝縮された瞬間は、写真や映像になって切り取られるのだ。つまりバーニーの作品は、芸術のあらゆる形態の総括であり、その身元はアートとも映画とつきはしない、かなり壮大な出来事を実現させているのである。

「クレマスター・サイクル」にはまぎれもなくストーリーがある。これがある以上、作品はひとつのアイディアの提示でもなければ、刺激や経験の代役としての美術作品とも別物である。エピソードがあからして、こいつは文学にリーチしてる。これはおそらくこの作品が他の美術作品と決定的に違う点である。重要なことは美術が美術から抜け出そうともがいているということだ。

「クレマスター・サイクル」に秘められた物語とは、ひとつのアイディアや意志が生み出されるまでの、内的な真理展開(経緯)の描写ではなかろうか、と僕は思う。人間の意識にはステージ(段階)がある。この内的な精神と思考のプロセスをくぐり抜けると、通常では見えないもの、今まで気づくはずなどなかったものが、そこに確かに視えるようになる。それは真理が見えるということとは違う。むしろ真理であると決め込んでいた今という死骸を突き破り、リアリティー本来の不思議に再会する経過をたどるドラマなのだ。このプロセスは極度にプライベートなもので、人に見せたところで理解されるものではない。しかしだからこそアートのサブジェクトに選んだに違いない。芸術はいつだって行き場を失った想いや思考こそ主役に抜擢するのだ。

もっとも有名なグッゲンハイム・ミュージアムが舞台のエピソードにおいて、第一ステージには肉欲が、第二ステージには享楽が、第三ステージにはアーティストが宿命的に超えることを義務づけられたノイズと試行錯誤を強いるシステムが、第四ステージにはかりそめのユートピアとそこに潜む魔物が、そして最上階には芸術のストイシズムがある。これこそバーニーがなにか壮絶な瞬間と少しでも長く一緒にいるために、1日また1日と丁寧に決着をつけてゆかねばならない条件なのだ。

彼が化けた等身大の怪物は、このサイクルを永劫回帰のように、またシューシュポスの神話のように登ってはまた落ちてゆく。そこに流れる一筋の水は、彼の人生のタイムリミットでもあり、またそれは彼の中にじんわりと満ちてゆく情熱かもしれない。これほど個人的な内的プロセスを、これほどダイナミックに吐き出すバーニーは、今日のアートと今の自分を見つめる、こんな時代がつくりあげたリアルな夢想家と見て間違いない。

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