Languaging

言葉をつかうということ

2008年、昭和女子大の講堂で行われた吉本隆明の講演がDVDで発売されると知り、とても興奮したのを覚えている。誰でも人生のうちで一人二人、 自分の人生観を根底からヒックリ返してしまった、そんな人との出会いがあるのではなかろうか。僕にとって文芸評論家であり思想家の吉本隆明を知ったことは強烈な衝撃であった。彼の書いた本をすべて読んだわけではないし、その1/3も読んではいないけれど、彼は僕の物の考え方をずいぶん変えた。

吉本隆明のよくあるエッセイのいくつかを手に取ったのは19か二十歳ぐらいの頃であったと思う。初めて「思考する」ということの現実を突きつけられた気がした。彼はそれまで僕が問答無用に尊敬していた一般的に立派な人々を片っ端から批判していたし、その批判はアクロバティックに絶妙に的を得ていた。彼の文には都合のいいユートピア論や楽観主義なんてひとつだって含まれてはいなかったし、ショック・ヴァリューとしての大げさな悲劇もまた一つも書かれてはいなかった。

物書きでも、評論家でも、話家でも、日常会話以上に言葉を使うことを義務でづけている人々にとって、もっとも重要なことは素直にものを言うことだと僕は考えている。そしてその「素直」というやつは、どれぐらい素直なのかといえば、自分でも本当のところ自分が何を考えているのか分からない、というところまで立ち入って、驚きをもって、そうか、自分は本当はこんなことを考えていたのか......、と息を殺し身を潜めていた自分を引きずり出す瞬間、その事実は間違いなく自分に固有のことではなく、人間全般に通ずるスクープに違いない。

「考える」ということについて考えてみたい。自分はしっかり考えている、なんて断言できる人がいるとしたら、それはどういった内容の話であろうか。僕は自分が何を考える必要があるのか、ということを少しも知らない。考え方がどうのこうの言う前に、そもそも考え始める場所がぜんぜん分からない。これは不思議なことだし、たとえばニーチェに言わせれば悲惨なことでもある。

ある時点まで僕は、人間というものは知識を身に付ければつけるほど、思考が高尚になってゆくものだと疑いなく信じていた。知性とはつまり、積み木のように積み上げてゆくものであり、必要なことを必要なだけ知ったなら、思考は一段上に行くもだと信じていた。おそらくそれは大体は正解であって、そのことを大事に生活してゆけば、人生は建設的に発展してゆくに違いない。

しかしこういうスタンスは思考している人間ではなく、選択している人間の生き方である。こういう人々にとって知恵とか知識というものは、生活に便利なアイディアをかき集め、状況に合わせ最善と思われる方法をその状況に当てがってゆくということ。そしてその選択の仕方すら、人から学んだ知識によってはじき出される算式なのだ。ゆえにいつだってその意図と背景は追跡可能なのである。

しかし「思考する」とはまったく別の行為だ。思考とは、道しるべのあるところから始まるものではない。思考とは何でもアリから開始する。道しるべなど持たず、いやむしろ、道しるべの成り立ちにこそ立ち返り、そんな予測可能な意図こそ放棄してゆくこと、その結果僕らの使い飽きた「日常」という言葉の外れにこそ広がる世界があるはずだとイメージしようとする試み、思考とはそこを震源地とするモノだし、法則という法則はジワジワと凍りついてその機能を停止しなければならない。芸術と哲学は積み上げない。むしろ積み上がった物から急降下して地面に激突する意志であり勇気である。思考とは自分で自分を殺しかねないリスクとスリル、自分をたった今この瞬間まったく別の生き物に転化する可能性をもろに孕む、そういう行為でなければ意味がないのだ。

吉本隆明の言葉が何故あれほど多くのサブジェクトにあれほど鋭く迫ることが出来るのかといえば、おそらくそれは彼が物事を考え始める前に、何を、何故、そしてどのように考える必要があるのか、ということを誰よりきちんと考えるからであると思う。その姿勢と習慣は感心すべきことだし、これこそ知識人と哲学者の決定的な違いなのだ。

昭和女子大で行われた吉本の講演映像は、彼がこれまで綴ってきた言葉と比べれば非力で、吉本入門にもおぼつかないが、それは彼が彼の人生を数時間で纏め上げることなど無理があったからだし、NHKは例のごとく物事をNHK的解釈に歪曲して番組を固めたし、主催者であった糸井重里の吉本に対する理解がスタジオジブリの世界観ばりにセンチメンタルであったことなどにも起因している。しかし吉本隆明という人はいったいどんな顔をしてどんな風に喋るのか、ということを見れただけでも僕にはこの映像には意味があった。人生の中で一度でいい、会って話がしてみたい。吉本隆明は僕にとってはそんな人だし、たとえ相手が僕のようなまったく無名のどこにでもいる若者のひとりに過ぎなくとも、語る以上彼は、その昔彼がボードリヤールやフーコーと対談したとき、もしくは花田清輝や埴谷雄高と論争したときと同じ切実さで話をしてくれるに違いない。

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